落下する。と着地する。と飛び出す。

先日、うおお。っと編集の仕事を済ませて新宿に
『こっぴどい猫』を観に行った。
今泉力哉監督最新作にして長編。
上映前、今泉監督がロビーにていらっしゃったので、久々に話す。
色んな映画を薦めてくださったり、近況を話し合ったり。


映画はとてもたのしかった。前半は映画らしさを破壊するというよりも嫌ってんのか?
と思うほど淡々とした出来事を積み重ねるのだけど、中盤からそれらすらも破壊し始める。
いや、別に芸術的とか実験的とかではないのだ。シンプルに「その方がおもしろい」方向に
物語は進むのだ。
物語を進めるのは人間で。今泉監督は全出演者の特徴を最大限におもしろく引き出して、
彼ら彼女らの欲望が物語を純にひっぱっている。


なによりも、その欲望が最後に爆発するところ。いや、爆裂なのか。もしかしたら不発なのかもしれない。
でもはじけているのは確かなのだ。
淡々としている。とか、演劇的だとか、いう批評をよく聞く今泉監督作品なのだけれど、
この作品を以てしてそんな批評はようやく、ゴミ箱に丸めて捨てて、きゅっと出来る事になったのだ。


翌日『桐島、部活やめるってよ』を観た。
どの演技も演出も全て的確で、この映画というか物語を伝える上で間違ったモノはひとつもない。と思った。
好き勝手やっているのではない。とにかく綿密に繊細に組み立てられている。と、僕は思った。
ところがエンドクレジットが出た瞬間、隣の男子は「オチは?」と思わず呟いていた。
僕はそれに対して「え?高校生活にオチがあったけ?」と思ってしまった。
これは過ぎた日を持つ人に向けられた映画なのかもしれない。
じゃあ、過ぎる日を持つ人にはそっぽを向いているのだろうか?
あのコのあの涙はいつ、どこで、誰のために流れたのだろうか?
オチるために?
落下していくだけために?
安定な場所に着地するために?

飛び出してきた疑問。この映画は観る人にそういったモノを立体的に投げかける仕組みを持っているのかもしれん。

どちらも演者が全て素晴らしい映画だった。特に相手が話しているときの受け方というか、その表情をじっくり見て欲しい。