持って帰るか放棄されるか。

『家族X』(吉田光希監督・脚本)を観て来た。PFFスカラシップ作品である。


多くは語れない。家に持って帰る映画。
全てのひとが饒舌ではない。
積み重なるディスコミュニケーションがコミュニケーションの輪となる。
全ての答えは結ばれず、余韻のみが隕石のように落とされる。


映画よ饒舌であれ。とは思わない。寡黙であれとも思わない。
というか別に映画は喋らない。
日常だって喋らないだろう。というスタンスでちくちく描かれる日常は心地よいし、
とってもディスコミニュケーションだけれども、爆笑してしまうシーンが有り、
これが映画が観客をどこかに乗せて行ってくれる瞬間なんだと思う。
でも、この 映画は置いてけぼりをする。
それで、こっちは考える。分かんないのと、想像させるのとごっちゃまぜになる。
そうして、やっぱり飽きが来てしまう。


撮影は志田貴之さん。いっつもしつこく日記に書いている村松正浩監督作品の撮影などを多く手掛けており、
我々とカメラと俳優さんを一体化するような独特なカメラワークが特徴的な方だ。
ここで、キャメラと書かなかったのは、村松監督の作品がほぼビデオカメラで撮影されており(もちろんフィルム作品もあるが)
その全てがビデオカメラのフットワークが軽いという利点をこの肉体化もしくは空中化とでもいうべきか。
とにかくそういう化に活かし、見事におはなしのテーマなどと手法が一致して、村松監督の見ている「すこしふしぎ」な世界が
僕らにも持って帰れるし、目の前に広がるし、乗っていけるのだ。


ところが『家族X』において吉田監督はキャメラキャメラのまま、カメラにもせずぐらぐらと俳優を追わせる演出に徹していた。
勿論、志田さん特有の手持ち感は独特ではあったが、その手法がテーマと一致していたのだろうか?
もっと平たく言えば、映画全体における画の序破急は設計されていたのだろうか?
これはしていたと思う。ラストシーンや、家族の妻が完全に虚無になる瞬間などは変化を付けてこちらに訴えかけてくるものはあった。
だが、「そこまでお客さんが着いて来られるのか?」「実際、どう見えるのだろうか」「飽きないのだろうか」
という一見、商業主義というか観客に媚びるような行為に思われがちではあるが、人に観ていただく以上は放棄してはいけない考察が
抜けてしまってはいなかったのだろうか?


先に記したように、志田さんの撮影はとても素敵で、好きである。
だからこそ「敢えてそうしたのだ」というキモチもちょっと分かる。
しかし、出演者の皆さんは素晴らしかったのだ。
三脚に乗せろとは言わないが、どこかで表情なり、動作なりに緩急を付けるべきだったように思う。
画だけはダイレクトにどうしようもなく、そのまま目に映るのだから、特にどう見えるのか。というのは重要だ。
と最近よく考えていただけに、強く思った。


それはさておき。というかそれでも、1シーン1シーンを反芻している自分がいるのも確か。
観るのを放棄していたお客さんもいたと思う。(シートが後ろからどんどん蹴られてたし…寝るなら静かに寝ろよな)
放棄した人は残念だけれども、この反芻の良さ、一生味わえないかもな。


個人的に好きなシーンは
田口トモロヲ演じるお父さんが、出かける時にお母さんのサンダルをちょいっと揃えてやるシーン。
「気を遣う」のと「コミュニケーション」というのは違うんだよなあ。
と後々響いても来るし、可愛らしくも見える。
あと、村上淳さんファンは絶対みるべき。