CO2東京上映展、行って来た。
昨夜は今泉かおり監督『聴こえてる、ふりをしただけ』を観た。


冒頭のダイナミックな導入から、主人公さっちゃんのお母さんの喪失への「こころ」を覗かそうとする
淡々とした語り口はほんとに初長編監督作品なの?という位の見事さ。嫉妬。
演じる子供たちもまるで、監督の作品を通して云わんとせんことをきっちり理解した上での演技を体言化していて、
おそろしや。


私事だが、僕は小学校5年生のころに祖父を亡くした。とても大好きだった。エロジジィで、頑固だったが、
「人間は戦争をするから嫌いじゃ」と拗ねるところとか、可愛くて、好きだった。
祖父も僕のことを大層かわいがった。多分、可愛いというより、好きだったのだろう。いちゃいちゃしていた。
そんな祖父が死んでも、間違いなく祖父は僕のことを好きで、見守っていてくれて、どんな困難も弾いてくれる。
と信じていた。
その信仰をより強めたのが、形見の腕時計である。
父と母が大げんかしようが、父に「こんな奴、高校にも入れるか」と言われようが、
僕は祖父の腕時計がぴかーんと光ってくれたおかげで、
高校も進学校に進学し、成績もまあまあで留まっていたと思った。


上記の通り、父母の不仲をきっかけに誰とも付合ったり、結婚なんかしないようにしようと勝手に契ったりもしたのだが、
祖父以外に僕のことを好きになってくれるひとが現れ、それを受け入れた途端に祖父の腕時計は壊れた。


僕はひとり、うぎゃあっと鳴いた。
それからは悲惨なものだった。今こうして生きていられるのは、根性曲がりな反抗心と妻のおかげである。


話は逸れたようで、逸れていない。と思う。主人公のさっちゃんはお母さんの形見の指輪をお守りにしている。
いなくなったひとの「こころ」から自分の脳みそへ届いてこない、守護のちからを信じながらも、疑い、呪い、罵り、
多分殺意すらも抱いていたのだろう・・・。それほどまで喪への探究心があるのでは・・・
と思わせるのが、さっちゃんだった。


そんなさっちゃんを観ていると、「なにが、『ぴかーん』だ!僕のくそやろう!もっと・・・もっとだよ!」自らの喪を呪ってしまうのだった。
それがいいのか、悪いのか。卑怯だけど、それは人それぞれだと思う。僕はこういうぐるぐるする映画大好きだ。
面白いのはさっちゃんや、その友人ののんちゃんたちが、凄くタフであるからというところ。不思議だ。で、面白い。


後半は殆どのシーンごとににきっちりと起承転結が組み込まれていた。びっちり伝えたいことがあったのだろう。これも一種の迫力ではあったが
冒頭のダイナミックさから、畳み込むようなトドメが欲しかったお客さんもいるんだろうな。という空気も劇場内にあった。
監督への質疑応答の際に監督が「合わせ鏡のシーンはもっと・・・(ネタバレになるかもなので省きます)」ということを仰っていた。
確かにあのシーンをきゅっと重しにすれば、淡々とした顛末とはいい意味で喧嘩をして、単純にお客さんを引く力が増したのかも。


そして、喪に対するぐるぐるが我々の過去だけではなく、未来とか、ここではないどこかも巻き込んで渦巻いて吹き飛ばしてくれたのかもしれない。

CO2、まだまだ続きます。今作もまた上映あるようですので、是非。

http://co2-tokyo-2011.jimdo.com/