おもてとうら

ヨモフライによる企画・製作の監督作品『ゆれもせで』編集中。


おもしろいものになりそうです。


昨日『見えないほどの遠くの空を』という映画を観て来た。




云いたいことも表現したいこともわかる。
なぜならば、登場人物が全て吐露してくれているからだ。


ただそれでも見終わった後にヒロイン(?)の台詞を借りれば「わかるけど・・・」
という気分が拭えない。


脚本を書く段階で、テーマを直接言ったり、人物の欲求や感情をダイレクトに言わせてしまうことは
映画的にセンスが無いことと言われたりしている。
お腹が空いた人が「お腹が空いたな」と現実では言うのだけれど、
この人はお腹が空いているということを見せたいのならば、
もっと観客の想像力や好奇心を手繰る手法があったりする。
というのが、大事ということらしい。

お腹が空いた人の前に、ケーキを置いてみて、反応を見たり・・・。
お腹が空いてイライラしている人に、心配性の友達に過剰に心配させて
「腹なんか減ってねえ!」と正反対のことを言わせたり・・・。
その正反対がこの映画の中では殆ど無い。皆、表の人間なのだ。


なので、映画研究部内で「ラストカットを撮るか撮らないか」という議論になったとき、
皆、まっすぐに意見をぶつけ合い、とても丁寧に議論を重ねる。
現実にはそうすべきことなので、観ている側も何だかそれはそれでほっとするのだけど、
先が観えてしまうのだ。


そんな感触を持ちながら終始映画は続く。ひとつ、仕掛けがあり、「その為の表の連続だったのか」
と納得できる部分もあったが、終始先の読める表の連続に、「これではお客を引っ張れるのだろうか?」と思った。


一緒に観た友人にそのことを云ってみると
「ON(表)ばかりの人間を描くという手法に挑戦してもいいと思うけれど、何かが間違ってしまったのかも。けれど、きっと正解があったんだよ」
とのこと。
なるほど、表現意図と手法が合致していないわけではないのだから、手法を否定してもしょうがないのか。
その手法を磨けばもっと何か突き刺さるものができるのかもしれない。


実際、まっすぐに議論をぶつけあうからこそ、産まれる葛藤もあるわけだし、
少なくともこの主人公の
「なんかわからへんけど、この世のシアワセはこんなもんじゃなくて、でも、今すぐ掴みたいから、映画つくって掴んでみるねん!」
という信念を周囲の気持ちの揺れもおかまいなしに突き進む具合は『ソーシャル・ネットワーク』のあいつらみたいでもあったし、
そういう猪突猛進な主人公に対して友人が正直に
「お前に怒っているんだよ」と丁寧に且つあきらめ半分で伝えるシーンはどこか空虚で、
それでも芯が存在しているような不思議なシーンだった。


その芯とはなにか?
こうだ。という確信を以て、独特な手法を手繰る余地はまだこの世界にある。


小生監督作品の音声を担当してくれている石川真吾くんが編集し、
『ネコハコベフジワラさん』主演の中村無何有くんが出演しています。
(ドエスで、吐き捨てる台詞が一カ所あり、素敵でした)
池袋シネマ・ロサで公開中です(21時〜)一見の価値はありかと。