映画ばっかりみてきたよ

撮影日直前。「Xメン ファーストジェネレーション」


非常にストイック且つ大胆な描写。うーん。さすが、「キック・アス」の監督さん。
暗殺者よろしくアクティブなマグニートに対して鬼恵まれたセレブ、プロフェッサー。
そりゃ対立するよね。「あんたのきもちわかる」って、んなアホな。


またブライアン・シンカー監督にも続投願いたいな。


今日。「スーパー8」
言うことなし。全てゼロで観るべし。
ただもう、エル・ファニングは全てを奪うだろう。
ふざけやがって。あのメイクはずるい。


先日の小生監督作「ゆれもせで」撮影中に衣装さんに
ジーンズはエル・ファニングちゃんのように履かせましょう」と言われ
「はい。いいですね。でも僕はダゴタ派ですけどね」なんて事を言って引かせた事謝ります。
あとエルさんにも謝りに行こうと思う。あ、引かないで。

で、続けて映画太郎
Bプログラム。
「君とつきあえなくて、僕はかなしい」(工藤渉監督)
登場人物の独特の行動はおもしろいのだけど、
動機がみえてこないから、連れてってくれない。
役者さんは皆、魅力的なのだけど、いまいち顔が見えない。
意図なのだとしたら、その意図もみえないし、
見えたところでそれは映画の楽しみでもないし。
うーん。と思っていた。

「ISM」(短編映画オムニバス)
それぞれよくわかんない。
スーパーボールをおっぱいの代わりにする短編は
たましいがあった。
でも、やっぱり意図が手法に繋がっていない。戸惑う。

「ひねくれてもポップ」(村松英治監督)
比較するもんじゃないけど、続けてみたのだからしょうがないじゃない。
上記の作品らとは明らかに違って、意図と手法が完全合致。
あほー。で、あまえんぼうで、進まないひとたちが主人公。
まあ、動機はみえない。でも、こいつらの気持ちわかってくる。


SDガンダムでひとり遊んでいて「これ、映画にならんやろか?」
と思っていた僕自身に会いにいきたくなった。


実はとなりに座っていたご年配の方が何でも笑うお客さんで、
所謂自主製作映画の苦笑されてしまうような表現でも笑うのだ。
つまりBプログラムは冒頭から笑い声続きっぱなし。
しかし、「ひねくれてもポップ」が始まると、笑うには笑っているのだけど、
こっちもつられて笑ってしまう。笑わせに仕掛けて、成功しているのだ。
で、ぎゅうっと締めるシーンではそのお客さんはぎゅうっと黙っていた。


ありのままのことばでも、文でもなくて、
役者の声、役者の顔、動き、全部が意図通りの手法で描いている。
内包したものや動機なんて所詮は、見えるもの、聞こえるものからでしか
伝わらないのが映像作品で、照明や音声は凄く大事。(みせないことも使ったりするのも)
そして、それはダイレクトに観客に伝わり伝染していき、共感と共有になるのだ。な。