ささえあう、ささえあわない

『ゆれもせで』音を追加したり、タイミングなどを調整作業中であります。折り返し地点までやってきました。
先日は脚本の岡君と一緒にどのような声を入れるべきか、禅問答しました。
議題は「おっぱいに勝る、渇望表現のそれ」
ロックンロールより強いおっぱい。うーん。

色々観るのもした。
『適切な距離』(大江崇允監督)
CO2東京上映展にて。
設定そのものよりも丹念にコミュニケーションの崩しに入った演出が見事。
ちょっとした会話でも、いつその関係が意味不明に陥るかわからない不気味な空間があり、
それは観ている側の人間が現実世界で瞬間的に共感し得るものではないだろうか。


監督自身はトークショーにて、脚本では構造であったり、飽きさせない仕掛けを重点に置いて書いたと述べていた。
確かにその通りで、気持ちよく観客を裏切るカットの連続はさすが。ぎゅっと映画に入っていける快感がある。


役者たちもその仕組みを心得て、何度も打ち合わせリハーサルをしたのだな。と思える。


主演の内村遥さんは一度、お酒の席でご一緒し、
2人とも風邪をひいていてジュースを飲みながらお話をしたことがあるのだけれど、
そのときの独特な魅力が爆発していた。声はとても芯があって通るけれど、どこか引っ込んでいるような感じ。


「ほっといてくれよ。でもオレは凄いんだからほっとかないでくれよ。どこが凄いのかはわかんねえけど」
役者コースでの授業シーンで課題である「自分の真逆の性格」を表現できずおどおどしてしまう主人公からは
そんな悲哀が溢れ出ていた。


こいつが童貞でないのも、なんかイイ。本当に好きなコには声を掛けられず、
懐いているそこそこ好感を持てる女子とくっついたりするのだ。この女子を演じていたひとも
誰とも一線を引いて生きて行く覚悟を持っていたりして魅力的。


こんだけ魅力的な素材がたっぷり詰まっているのだけれど、僕はちょっと納得できなかった。
何でだろう?前からずっと気になっていた「顛末」の描写がよくわかんなかったのだろうか。
わかりたくなかったのだろうか?父親が母親を死ぬ程ぶん殴っているのを目の前で見てしまった自分からは
随分と都合のいい距離ですね。としか思えなかったのだろうか。ぐるぐるしている。


『黒い雨』
アップリンクにて。フィルム上映ではないので、すこし残念。しかしながら面白い。
悲惨な状況の中、明日をも見えぬのに、ユーモアだけは失わないという意地で支え合う人々。
子供のころは原爆の凄惨さしか記憶になかったのだけれど、
原爆投下後のそういった人々の息づかいが非常に心地よかった。
「死ぬために生きているのではありません」というのは間違いなく、今、生きているひとの声なのだ。


『昆虫系【改訂版】』

鵺的という演劇集団主催の舞台。
容疑者の圧倒的なキャラクターが記憶に新しい、本庄保険金殺人事件
http://ja.wikipedia.org/wiki/本庄保険金殺人事件
その事件と容疑者を見続けてきた関係者執筆の本『虫けら以下 - 本庄保険金殺人事件の軌跡』を
基に構築した物語。


現実の事件ではおそらく「飼われるまま」の人間が蹂躙され尽くされたのだろうだけれど、
その人間のケツの穴の汚れ具合を知り尽くした悪党どもと、
ほのかに反抗を抱くものたちが存在する物語になっていた。


舞台は「悪党」が経営する地下のバーで、「悪党」たちが鼓舞する間に反乱分子たちはセットの片隅で
その炎を静かに燃やしている。観客は自由にこの空間を見つめることができるので、自分カット割りができるのだ。
というかすることによって成立している。
とても映像に惹かれた演出だな。と思った。


肉迫するクソ野郎どもの鼓舞。直接的な残虐描写がその見所ではなく、浪々と歌い上げるカラオケ。
これはとても気持ち悪くなった。違う世界であって欲しい。素直にそう思えた。現実的だからそう思えたのでは無く、
舞台でしかできない表現。リアルタイムで舞台で観ることでしか感じ得ない違和感が効果を出していたと思う。


反乱分子たちの描写は、それを立たせる為に、鼓舞はしていなかった。抑えめの嘲笑とかも面白いのだけれど、
どこかで舞台でしか感じ得ないものを魅せて欲しいと思った。
クールにそちら側にいるアケミ演じる神農幸さんは
偶然にも『ゆれもせで』にて明海(アケミ)という役を演じていただいており、
お話やキャラクターは大真面目に話をしている映画なのだが、相手役が完全にボケなのでツッコミのような
立ち位置になり、ボケと一体となってどこか笑えてしまう瞬発力を持った演技が出来る人だと思っていたので、
そういう瞬間を楽しみにし過ぎていたのかもしれない。


ラストではある人物のふとした独白で、「この世界はクソ野郎のおまえたちも巻き込むのだ」という響宴へと展開していく。声もない、血もない、ただゴム手袋を用意しているその空間で、その戦慄を味わってしまった。ささえあわない人たちでも社会は形成されていく。それなりに。


終演後。その戦慄に浸っている中、神農さんに「どうでした?」と聞かれ「あ、ぐ、あ、ことばもないです」とヘラヘラしたら、まだアケミの目をしたままの神農さんに「じゃ、メールで」と言われ、とても恐ろしかった。
うう、あの世界はあるんだろうな。


共に観ていた岡君や、神農さん、映画監督さんたちとお酒を飲んでいたら、なんと隣のテーブルにジム・オルークさんが!
アワアワと泡を吹きながらもご挨拶をしました。
「ぼ、ぼく映画監督してます!」「あ、じゃあ名前教えてください」と優しい声と瞳で応えて頂きました。
それにしても我々のテーブルの9割がジム・オルークさんのお顔を判別できる人という奇跡。
「めっちゃ、瞳がブルーや」とまだ挨拶もしていないうちにジムさんと見つめ合っていた神農さんも奇跡のひとだな。