地獄にドラえもんはいない。

「都会の夢」(高木駿一監督)という映画を阿佐ヶ谷にて観てきた。
小生監督作品「ネコハコベフジワラさん」と同年にCO2企画制作部門で製作された作品。


なかなか観られる機会がなく、劇場で観ようと思っていた。


というのは、その年のCO2では最優秀賞が対象なしであり、優秀賞は「都会の夢」が受賞。
審査員のいとうせいこう氏が「大阪市長賞をなめるな」「この受賞は我々から匕首を突きつけられたと思え」という
檄と共に授与した賞である。
「ネコハコベフジワラさん」は主演女優賞を喜多が受賞し、その際はほんとに「審査」したのか?
と疑うようなコメント。

賞を与えなければならないから、与えた。というのはあんまりかもしれないが、
各賞に対するコメントからして僕は審査員の真摯さは全然伝わらなかった。
他部門(応募作品部門?)の審査員であった矢崎仁司氏のコメントの方がより審査員として、より人間として、
真摯さが伝わるものであり、「批判」も映画全体をぐっと前進させるものだったと思う。


実際、審査員からちっともコメントされなかった「僕たちは死んでしまった」を劇場で観た際には
「どうして、こんな面白い作品について、受賞会場でコメントが無かったの?」と思ったこともあったし、
お客さんからの生の反応もとてもいい感じでもあった。

僕自身の私憤も混じっているのか。と思ってモヤモヤしていたが、企画制作部門の選考を務めた沖島勳監督から
お褒めのお言葉をいただいたり、徳島での上映後の反応を見て、あの審査はヘンだったんだ。と確信した。


こんな経緯もあり、ある意味決着をつけるべき気持ちもあったのだ。だから絶対劇場で観なければと。

90分近い長編で、あれだけの登場人物をうまく構成はしている。と思う。
「都会の夢」というタイトルが象徴する、虚無感をあぶり出すという核が向かうベクトルにはブレもない。
ただ、その虚無感が完全にアイコン化してしまっていると思った。
「ホームレス」「ネットカフェ難民」「カラーギャング」「家出」「中絶」「妊娠」という素材が素材でしかなくて、
悪い意味で普遍化しすぎているのでは無いだろうか。
まるで監督が既存のテレビドラマ、映画で観たそれらをより平坦に彫刻して、
且つては複雑な糸が絡んでいた個の問題であったはずのそれらが
集団の問題として「みんなにわかるように」一本化してしまっているように思える。
だから、画面を通して、登場人物の虚無へのあがきや、虚無への放蕩が、「安心」して観られてしまうのだ。
最悪、死んでしまっても「ああ、こういう筋書きだったのか」と頷くだけである。
それはあくまで全体的な印象で、集団から個へむき出していく瞬間などがたくさんあり素敵になりそうな予感があった。


その後の飲み会にて、とある監督さんが「22、3歳でああいう『まとまり』を完成させてしまうのは地獄だよ」と言っていた
のは印象的で、タイトなスケジュール、プロの役者、予算を助成されている、などなどの要素が「作品をまとめる」という
方向へ高木氏を導いたのだと思う。で、若干23歳であの規模の作品を完成させるバイタリティには驚愕、賞賛するが、
まとまってしまうという地獄も背負ってしまったのだな。と思った。
しかし、まとまっていなければ、わかりやすくなければ、安心でなければ、お金にはならないのだな。という展開のお話にも
なり、僕自身も地獄を感じる。

終電を逃したので、飲みの席で再会した『LINE』監督の小谷忠典監督から新作のラッシュの一部を観させていただいた。
それは完全に個の問題を抽出したもので、監督自身がその個と対話し、対象者も監督の個と自らの個と向き合っている、
不思議な空間だった。意識と無意識の往来が心地よく、
ドキュメンタリー作品でありながらフィクションへの可能性も感じさせるものだった。
(小谷さんは「フィクションには希望はない」と笑っていたが)
その可能性を噛み締めつつ、「あの画力、そっくり体に染み付けられる道具を出してよドラえもん
と酩酊しながら帰路についたのであった。