とくしまへかえった1

3月11日。14時ごろ。東京の住まい。僕と妻は東京から徳島へ翌日帰る支度をしていた。僕は友人がはじめて自主で映画監督をするので、その撮影現場である徳島へお仕事で赴くことになっていた。


とてつもない地震が日本を震撼させるなんて、一ミリも考えていなかった。
ぐらっというより、ぬるっとした感覚で揺れ始まり、家具や固いものはかたかた揺れているのだけど、自分の足元はまるで綿の上に乗っているような弾力を感じる揺れ。
ダメだ。家屋が潰れる。と妻と共に部屋を飛び出す。
ちょうど住まいの裏が駐車場だったので、避難。地面が綿になっている。
呆然とする僕に妻は「電線の下危ないよ」と冷静に注意してくれる。そうだ、守るものはある。と気持ちがしっかりするものの、目の前の家屋がぐらぐら揺れている。怪獣映画でしか見たことのない光景。

揺れはおさまり、家に戻り「いやー東京って地震、こんな大きいんだ」などと笑い合いながらテレビをつける。「お、テレビが緊急特番に切り替わった」などとテレビを見る。そして津波の映像。膝が震えた。へらへら受け止めた地震がとんでもない威力の水の壁を運んでいるのだ。田を車を家を人を黒い濁流が音より速く呑み込んでいく。


電話はストップし、電車はストップ。友人映画監督のNくんと相談し、翌日徳島に行こうという話になった。
妻は翌日の深夜バスで、僕の到着翌日に徳島へやって来ることに。
3月12日
翌朝、麻痺した交通網をなんとか駆使して、僕は徳島へ。あたたかい日差し。あんなことがなかったかのようだ。
しかしN川くんと合流した後にテレビで福島の原発から煙があがっていた。いや、爆発だった。
そのとき思ったのは「しまった。妻や友人たちも連れてくるんだった!」ということ。
映画撮影も、ダメだろう。と思った。がNくんは諦めていない。確かに沢山の役者さんたちのスケジュールを拘束しているんだ。
日本が終焉したわけではない・・・。

打ち合わせを重ねて、深夜妻の実家に帰宅。ひとり布団に潜り込む。さみしいのでラジオをつける。
「がんばれ」とは言わないけれど、明るく話すDJたち。色んな歌。はたして僕はこんな風に「表現」でひとを救えるだろうか?
ラジオとはひたすら語りかける「表現」であり、こんなときにはとても心づよい。だから好きなんだ。

3月13日
妻は無事徳島に帰ってきた。映画撮影は難航した。台本を直したから、1からやり直し。
さらにはNくんが「東京に帰る」とのこと。茨城に大事なひとがいるのだ。
『というか、先に言えよ』と吠えることはなく、東京に帰す。
明日から監督代行だ。

3月14日
夜、撮影。妻にも手伝ってもらう。
予定の半分しか撮れなかったが、とてもたのしい。


3月15日
役者のひとりのご家族が病気で倒れた。Nくんの許可などいらぬ。即中止を判断。
Nくんとも話、許諾を得る。「まだ、東京は来ない方がいいよ」と進言される。
このままでええんやろか。
ふと、浮かんだ案。
Nくんの映画撮影とほぼ同じ条件で映画をつくってみよう。
役者を限定して。
3日程度の撮影で可能なシナリオを。

気付いたら僕は「おわりはおわり」の主演女優ふじたさんに電話していた。元々、Nくん映画には出ていなかったが、
こういった即興性の強いものづくりには彼女が必要だ。
ふじたさんは2つ返事でオーケー。

あとは参加していた役者でスケジュールに余裕のある、
「ニューヘアー」主演すみたださん。「イートスリープクリープ」出演のいはらさん。
これも2つ返事でオーケー。


3月16日
役者さんたちと打ち合わせ。「どんなはなしにする」
いやらしいはなし。さかっているはなしにしよう。と決定。
僕が勧めたんじゃないよ。


3月17日
シナリオ書く。も、テレビが気になる。だめだ。日本、だめだ。と書けない。
深夜、ナインティナインのオールナイトニッポンを聴く。
平常放送と岡村さんの政治家や弱きをくじく者への怒りの声。
「平常放送、嬉しいです」と宮城のリスナー。
下ネタ前回のハガキたち!進むシナリオ!


3月18日
役者たちにシナリオ披露。かなりウケた。仮タイトルは「さかっているだけのはなし」
撮影は3月22日〜24日の深夜まで。


3月19日
ゆっくりやすむ。妻もぐったり。


3月20日
妻と香川へ。イルカを観にゆく。
ひさしぶりにほっこりした。
イルカってへんなやつだけど、いかすぜ。


3月21日
やはり、ゆっくり過ごす。
とある徳島のロックフェスティバルにゆく。
佐藤タイジさんがトリ。ひとりですごいな。

翌日撮影開始になりますが、また後日・・・。