そととうち

しんぼる [DVD]

しんぼる [DVD]

見た。


見る前と後に、色々な酷評を読んだりした。それも含めてのことを。まとめることなく。


この映画に限らず、もう「映画は」とか「映画だからこそ」とかいう言葉を使う評論にうんざり。
役者H部さんが、ある日「映画評論家って、必要なのかなあ」と首を傾げていたことの原因はここにあるかと思う。
映画の見方を様々な視点で紐解き、映画に触れたことの無い人たちを映画に誘う。のが映画評論というものではないだろうか。
それなのに映画を既存の映画だけを用いて説明したり、比べたりしてるものが殆ど。
好き勝手に感想を言う。思う。抱く。のは全然いい。お客様なら、当然の権利。でも、それを評として、公然とインターネットに掲載されてしまう。
ああ、もういやだいやだ。さらにそれでお金まで稼ぐ。いやだいやだ。


「しんぼる」「大日本人」に対しての批評の中で「良くなかった」というベクトルのものはどうして、こんなに響いてこないものばかりなんだろうか。


思い出す。「4時ですよ〜だ」の書道大喜利的なコーナーで松本人志が命題を完全に無視して、バカボンの足元を半紙に書きあげた時の事。
思い出す。「ごっつええ感じ」の河童。
それらを目の当たりにした時、心が弾けとんだ。「テレビなのに!」
その「なのに」の後には「ほんまみたいや」という歓喜があった。
「ゾンビ」や「岸和田少年愚連隊」でも同じ歓喜があったと思う。

松本人志ははじめから「お笑い」「映画」「ドラマ」などで100点など目指していないのではないだろうか?
現実にも勝る感触。何とは言えない。言えるなら、言って仕舞いやないですか。
だから、おそらく彼の関わる映画には「映画は」という言葉を撃っても響かないだろう。

大日本人」は大きな確信が感じられた作品だったが、「しんぼる」は様々な戸惑いや実験が入り乱れ、さらに「世界」を意識したので、変に想像力を噛み砕いた感触がある。
一緒に見ていたよめと、主人公の男に対してあれこれ口にしながらツッコンで見ているととても楽しかったのは、その噛み砕き、ちょっとだけ次元を低くしているからなのかもしれない。


もう何書いてんのかわかんなくなってきた。
映画だけで映画をはかるのは自分の内だけでやってほしい。と思っているのかなあ。

町山さんの素晴らしいポッドキャスト聴いて勉強しないことをしっかり勉強してくれ。