朝。追加カットを撮るため、一人風景などを取りに近所を歩く。
家を出たすぐに汽車が通っていただけた。汽車には縁があるのか。
その後、役者さんの家にてアフレコ録音。
ミュージシャンだけに音の造形へのちょっとしたこだわりがうれしい。
おみやげを数点渡したお返しに、ジョルノのグラスとプロシュート兄貴のノートを頂く。


帰宅後、よめを連れて「告白」を見に行く。
いい。
いいのだが、すこしひっかかる。


陰湿でどうしようもない「業」の群れをハイコントラストな映像とハイセンスな音楽と綿密な演出とシニカルな演技を以てして見事に描いていた。と思う。
ああいう主題で、ああいう幕切れの映画を製作できる日本映画はまだまだ死んでいない。という勇気ももらえた。


しかし、見終わった後によめぷくと漏らした言葉は「これって小説読んでるみたいやな」だった。
中島監督は原作を見事なまでに完璧にインプットしたのだろう。しかしアウトプットも完璧過ぎたのかもしれない。


小説は強制的に人物の感情や想いを言葉として表記され、受け取る。その代わりにそこにある情景や人物の表情を想像して小説という表現を自分のモノにする楽しみがある。
映画では、情景や表情を色、明るさ、スピード、様々なトリック・技術を駆使して映し出し、観る。そして人物の感情や想いを、想像して映画そのものを自分のモノにする楽しみがある。
と思うのだ。すごく極端に分けてしまうのだけど。


「告白」にそれが全くなかったわけではない。木村佳乃演じる生徒の母親はとても想像力を駆使させてくれた。いぢわるで、利己的で、ぐずぐずなにんげんを自分の姿と照合していく・・・。不気味だけど心地いい感触があった。
ただ、全体的に直球勝負過ぎたのだと思う。そのおかげで、所々巧く余白を作ってはいるのだけど、その余白について来れない人もいるのではなかろうか?子供の頃って、特に14歳の頃ってあんな感情直球丸出しでいるんかいな?
いないことは無いけれども、みんながみんな分かり易過ぎてそれが少し怖くも感じた。狙いならば狙い通りだけど。説得性がないんだわ。


劇場を後にするお客さんが「どうして、あのコ鼻血出してたんだろ?」と言っていた。ネタバレはしないが、僕は「えー?そこわかってなかったの?」と思ったのだ。



長々と文句を書いてしまったけれども、「嫌われ松子の一生」よりもパコとなんたらよりもスカッとした映画ではありました。だからこそ、こんな因縁つけたくなるんかいな。



あとR指定なんかにせんと、「エレファント」「台風クラブ」と併映して中学生たちに見せてあげるべきだ。