回れ右

 「四日間の奇蹟」という映画を見た。

 主人公はかつての天才ピアニスト如月(吉岡秀隆)。ある事件で障害を持った少女をかばい、指一本が動かせなくなってしまう。事件で両親を亡くした少女を養いながら、如月は少女にピアニストの才能を見出し、少女にピアノを教える。
 ボランティアで養護施設や老人ホームなどで演奏をする少女。それを身守る如月。2人はある脳障害の患者を収容した施設で働く1人の女性(石田ゆり子)と出会う・・・。

 中々、期待してしまうストーリーだ。だが、物語は「奇蹟」を起こすために「フロム・ダスク・ティル・ドーン」に匹敵する展開を始めるのだ。なんと、石田ゆり子と少女の精神が「転校生」「あたしンち」よろしく入れ替わってしまうのだ。そこから、奇蹟のオンパレード。登場人物、それぞれが抱える悩みや過去の苦しみなどには説得力があるのだが、それに対する「救済」があまりにもご都合主義すぎる。

 「愛しているから」「優しいから」「純粋だから」なんとかなるなら、彼らは今まで何故苦悩しなければならなかったのだろうか?映画の中だけでも夢を見たいなどとよく言われるが、実際に「どうにもなってない」人に対しては何の説得力を持たないだろう。

 その「救済」にもユーモアが無いのもしんどい。「ライフ・イズ・ビューティフル」ではユダヤ人である父ができる範囲でありながら、「笑い」の才能を持ち合わせ、息子、妻に対する大きな愛情を持ったからこそできる「救済」を見事説得性を持たして描いていた。「戦争」「虐殺」に「笑い」を持って来るユーモアは見る側を引き込む魅力となっている。

 そんなご都合主義な「救済」なら、登場人物の背景や個性なんかはどうでもいいような気がしてくる。折角、吉岡さんはいい味を出していて、石田ゆり子さんも一皮剥けてきてるのに、その役の必然性が皆無なのだ。

 感動させるための回れ右をするのはもうやめようよ。