とべるかも?

 徳島フィルムコミッショナーの理事さんと会うことに。最初はあまり気が進まなかった。というのは年配の方で映画好きの人というのは頑なに昔の映画を棚上げして、目新しい表現を下に見る嫌いがあるからだ。
まあ、僕ら世代が「コピー世代」とか「観念的」とか呼ばれる原因を作っているからでもあるのだが、頭ごなしに自分の理解できないもの(もしくは理解出来ないと感じたもの)、自分の好みにこだわりそれ以外の手法を表現と切り離して否定する人と接するのは苦手だ。

 映画ポスターがたくさん貼られた事務所で理事さんはメガネを出していて、僕が入ると、コーヒーをすすめて、「ちょっとだけ見てみよう」と早速作品をビデオで見始めた。最初の内はあれやこれや質問したりしていたが、そのうちのめり込んでいて「いかんいかん、面白くてこのまま見てしまうな」と50分ぐらいでようやくビデオを止めた。
 それから持ち出してきたのが「裸の島」という作品。ある島で暮らす家族をセリフを一切削り、淡々と描いた作品だった。彼が映画に関わりたいと思わせた作品らしい。
 僕の「おわりはおわり」は言ってしまえば映画の反則をたくさん使っている。理事さんのような昔のきっちりした映画を見て来た人からすればなおさらのことだが、「裸の島」も当時としては非常に実験的な映画だった。ただ表現と手法が一致していて、作者の「いいたいこと」が映像を通してきちんと伝わる。これは両者に言えることで、それが出来ている自主制作映画は数少ない。
 
 というようなお誉め(僕はそう捉えた)の言葉をいただいた。それから二時間程、話は盛り上がり、理事さんは是非、徳島で「おわりはおわり」を上映したいとのこと。そこで僕は以下の条件を出した。

1 ぴあを通して必ず作品の上映料金を支払うこと。

2 できれば何日かに渡って上映会をする。その中でプログラムを組んで県内での自主制作映画も上映する。

3 入場料をいくらかお客さんから支払ってもらうこと。

4 アンケートを実施してお金を払って見た観客の意見を受け取り、「次」へと磨きをかけるシステムを築く      

5 上映会の運営はできるだけ若い人を中心にさせる。初心者なら尚良し。

 理事さんはこれらの条件に納得。以後上映に向けてお手伝いしてくださるようだ。

 我々がコピー世代と言われるのはある種しょうがないことである。オアシスが「どうパクるかだよ」と言ってしまってるように、映画の世界もあらゆる手法は使い回されている。しかしそこで重要なのは「今」「自分」が表現できることをどの手法で扱うか。ではないだろうか?最初はまるっきり表面だけ真似事でもいいだろう。そこから「自分」を見つめていくことさえできれば。ではどうするか。タダで気のいい友人に見せてなあなあな意見を聞いて満足する?いやいや、ここで丸裸の自分を掴むには丸裸の他者の目が必要なのである。だからこそ映画というのは、作り→お金をもらい→見てもらうという一連のシステムをひっくるめて「映画」といえるのだと思う。

 自分のしたいようにするから、他人の意見に振り回されたくない。それはそれでいいけど、そのせいで目を閉じ、耳を塞いでいるならば僕はそんな人間が作った映画は映画とは認めない。芸術は自由だから、制限するなとか言われてしまいそうだが、そんな自分勝手な人の言うことは聞きません。1人でやってて下さい。芸術がどうのこうのという問題ではなく、人間は「感じる」ことができる生き物なのに、それをわざわざ殺すのは馬鹿らしいと思いませんか?
 映画を作るから音楽を聴く必要は無い。音楽を奏でるから、絵本を読むことはいらない。そんな人はもう「感じる」ことはいらないんでしょう。そしてそこから出来たモノから「感じる」ことなんてできないんだろう。
 まずは自分の外にあるものを感じること。信号機の点滅。女の子の手の冷たさ。バスの運転手の不機嫌なシフトチェンジ。たった一秒の出来事でも、それまでの自分を破壊することができるモノが溢れている。溢れているのになあ。