つらいということ

 重松清著「ナイフ」を読んだ。

 ひとことで括れば「いじめ」に巻き込まれた人物が主人公の短編集なのだが、「いじめ」いやこういう端的な言葉はこの作品に失礼だろう。この主人公たちに訪れる困難はフィクションとはひと味違う。奇跡などひとつも無く、あくまで現実と地続きなのだ。その苦味を噛みしめながらも、主人公たちは次へと進む。

 あとがき解説にも、あったが、きっとこれは本当にしんどい思いをした人への真の救済ではなかろうか?
僕も中学生のときには「無視」されたり一部のやんちゃ君に目を付けられたりしたことがあった。胃痛に悩まされながらも学校に通い続けた僕の心には「どうして、あんな嫌なことをするんだろう?出来るんだろう?」という疑問が渦巻き、それをはねのけやり過ごせたのは「そんなしんどい連中の為にこうやって心を消費するのは無駄ですな」という一種の防衛機能にも似た、開き直りだった。

 結果として無視に出た僕に興味を無くした連中は、他の悪事に目を向けて、変わりに僕に好意的な興味を示す連中も現れ始めて、この困難は自然消滅した。

 高校生になり、さんざん僕を殴っていたやんちゃ君とばったり会ったことがあった。驚いたことにやんちゃ君は何の厭味も言わずに世間話しをして来た。そこには暴力も無かった。そして後ろめたさのような感情も。やんちゃ君にとってはあの行為は「嫌なこと」と認識できていなかったんだろう。

 僕自身のしてきたことに置き換えるとぞっとすることもある。あの時、あんなことしたけど、あいつ死ぬ程それで悩んでなかったかあ・・・。などと考えてしまう。

 どうやっても人間の気持ちの間にはイコールは成り立たないんだろう。そのひずみで「つらい目」に遭う子供たちは数えきれない程いるだろう。でも、やり過ごすしかないのだ。いつか振り返ってそのつらさを相手に重ね合わせて少しでも優しくしてあげれるように。そんな応援とまでは行かないが、「うん」と首を縦に振れそうな説得力。これこそ救済でなかろうか?そしてそれがこの本にはあったような気がする。


 尼崎の列車事故の報道を見れば、人々はこの「イコール」を求めて、悲鳴や憎悪の声を四角い画面に詰め込もうとしている。その中で「時間に追われる現代人」などと警鐘を鳴らした気でいる番組があったりするのは皮肉でしかないように感じる。机上だけで論じられ分析された「イコール」が血まみれの現場に呆然とする被害者、一心不乱に救助活動に励むレスキュー隊、不景気に喘ぎながらも黙々とプレッシャーに耐えながら厳しいシフトをこなすJR職員たちに通じはしないだろう。
 僕はドラマや映画のような締めくくりを現実に求めたくないし、自分の作りたい映画もこんな「イコール」で答えを出して現実から切り離すようなものにはしたくない。つらいということを踏みしめた上での前進。その先にあるものはひとつの答えなど締めくくれるものではない。だからといって平均点を計算できるものでもない。イコールではなくベクトルが必要なのだ。決してそのベクトルが「負」の方へ向かわないようにして欲しい。まずそれだろう。