『おちみづ』を観て来た。

もう上映は終わってしまったのだけれど、村松正浩監督『おちみづ』を観て来た。

今から書く感想は感想にすらならない、駄文かもしれない。
映画をひも解くヒントにもなりはしないだろう。
いますぐ、丸めてゴミ箱に捨てるべきかもしれない。でも、まぁ日記だからいいか。


このブログをよく読んで下さってる方は村松監督作品をぼくがどれだけ好きかはご存知だろう。
個人的には村松監督作品は沢山見続けてもよし、いきなり1作品を観てもよし。
なところが特徴でもあったとおもう。前者は監督のもつ独特な雰囲気のせかいにどんどん深く浸っていけるし、
後者はそのせかいの新鮮な空気を楽しむことができる。


ただ今作は絶対に『グレイト・グランマ・イズ・スティル・アライブ』を観ていなければいけないと思う。
こう書いてしまうには大分迷ったし、悩んだけれど。やっぱりそうだと思う。
なぜなら、今までは前作との繋がりを「今」の人物独白のみで仄かに臭わせたりしていた遊び心に満ちた演出であったが。
今作では2作品前の『グレイト〜』での重要な人物が、肉体ごと存在しているのだ。その人そのものでは無いのかもしれない。
しかし、演者が同じである以上は前作を観た私としては「同じ」だと感じてしまう。

と、ここまで書いて「だからなんなんだ」という気持ちになってしまった。
それ以前にこの映画は私には迷宮であった。のだ。

映画が始まると、魅力的なひとたちが立て続けに出てくる。そう、村松監督作品の魅力のひとつ、
こちらのせかいには絶対居ないんだろうけど、そちらのせかいではよろしくやっている人たち。
飄々としていて、自分のことばっかり喋ってて、でも相手の顔色も観察している。
今回はそんな人たちが女性ばっかりで、魅力も増すわけだが。それはやっぱり僕が男の子なんだろう。あ、僕って書いてしまった。

思い出して書くだけで、こんな無防備になるくらい面白い女たちが出てくる。
みな思い思いに喋るし、喧嘩する、とてもかわいい。時々隙間を埋めてきたりはみ出す音楽もそちらのせかいでよろしくやっている。
が、ぼくはそのせかいに入っていないことに気づいた。誰の感情に寄り添えばいいのだろうか。
誰かの感情に寄り添おうとすると、物語は別のだれかを観ろ、感じろと視点が変わっていく。
それが退屈ならいいんだけど、いやよくないか。でも魅力的な画面とおしゃべりなので
ぐっと集中していく理解と感情を総動員していく間に、また視点が変わる。

映画はそれを終始繰り返して、すっと終わる。
今、これを書いていてちょっと連想したのは村上春樹の『アフターダーク』だ。
なんだなんだと思っていたら「では、ちょっと違うところみてみようぜ」と春樹のおじさんに誘われる。
そのときにあのおじさんの顔が浮かべば「やだよ!何でおっさんの言うこと聞かなきゃいけないの?おれ、この姉妹のこと観たいの!」って言えるが、
小説なので強制的に移動してしまう。

これが映画だと、やっぱり強制的なのですよね。だから腹が立つことが多いんです。僕の場合こういうの。
でも腹が立たない。何でなんだろう。村松さんがすきだからかなぁ。と思っていたのだけれど、やっぱり違う。
ひっかかっているのはやっぱり『グレイト〜』なのである。
両作にみっちりとくっついているものは「老い」である。
しかし『グレイト〜』からは主人公の死に対する静かで凛とした対抗心。
『おちみづ』には登場人物たちの美に対する嫌悪と嫉妬のようなもの。
個と群れ、立ち向かうことと、逃げ。
どうしても並べて観てしまう。ので、私と、いや。僕と感想を言い合うには『グレイト〜』を観ていてほしいなぁ。と思ってしまうのである。

ここまでがんばって書いたが、やっぱりこのような感想は丸めてゴミ箱に捨てるべきかもしれない。
でもまぁ、日記なんでいいか。